文化政策
日本の文化政策では、1.芸術の伸張と2.裾野の拡大というこの二つをうたっている。(他に日本語、宗教などもあるが)文化ホールやコンサートホールは、いわゆる質の高い芸術、ホンモノを知る、その世界の一流のものに触れるという機会を創出する目的を担っている。一方、地域の公民館活動や教育委員会が行う生涯学習などは、どちらかと言えば、裾野の拡大を担っており、それらが相互に補完されることで、芸術文化環境の循環を目的としている。
わかりやすく言うと、公民館や婦人会でフラダンスを習っているおばさんは、ハワイから来た著名なダンサーの公演に興味をもって、高いお金を払ってでも文化ホールに見に行くだろう。そして、また、地域で自分のダンスの練習に励む。フラダンスを習っていなければ、見に行くこともないかもしれない。習ってる人がいなければ、見に来る人もいないかもしれない。
こどもがピアノを習うなら、その世界の一流と言われるピアニストの演奏を聞かせたいと親がこどもを文化ホールに連れて行く。そうする機会は、こどもに一流と言われる上の芸を教える良い機会になる。そして、そのこどもはそれを目指し、あるいは意識の中におくことによって、自分のピアノの質や腕の向上に資するわけだ。そうして、その著名なピアニストが立った同じ舞台で発表会を開けば、そのこどもの感動や潜在的な意識においても、大変に大きな影響を与えることになるだろう。
そうして、ピアノを一生懸命頑張って一流のピアニストになるかもしれないし、なれなくても地域のピアノ教師となって、多くのこどもたちの音楽教育に貢献できるかもしれない。途中で挫折してやめてしまう人もいるかもしれない。一流を目指すなら、その道をまっしぐらに進むのが筋だろう。だが、一流のピアニストになった人だけが偉いわけでもなく、価値が高いわけでもない。そうなるためには家族の協力や様々な要因も必要だ。ただ、その道だけでしか生きていない人には、一流かどうかは一大事だ。
産業と消費としての文化ーメディア・広告との関連ー
私たちのこどものころは、ピアノは、社会的な豊かさの象徴なようなものでもあった。応接間にピアノのある暮らしが戦後の日本のあこがれでもあったのだ。それは、もちろん欧米の映画やTVドラマや広告などメディアの影響が多分にある。
ピアノがある程度、地域の文化度に貢献したと私が思うのは、製造メーカーと楽器店による組織化した音楽教室の創出による。そうして、音楽教室でこどもにピアノやオルガンを習わせれば、必ず親は関心をもち、演奏会に連れて行きたくなる。そして、成長し、音大へ行き、ピアニストになれなくても地域の楽器店でピアノの先生として後進の指導にあたる。そういう職業や産業とのサイクルができている。どの産業でもその人材が育つかどうかは、その職業で食っていけるというインフラが整っていることが必須だ。ピアノの先生には、その道が開かれているが、他の絵や演劇にはそういう仕組みがあまりない。 更に、クラシックのピアニストにとっても条件は厳しい。
文化庁が創設されたのは1968年。徐々に戦後の日本の文化政策が重い腰を上げ、文化国家日本を目指して動き始めた。そうして、音楽ホールが建設され、県立から、市立へと大型公共事業としての文化ホールが日本中で建設された。竹下総理のふるさと創生で、その数は一気に増加した。
しかし、目に見える建設資金には億単位の予算がついても、開館後の音楽家の出演料や企画料など、目に見えない予算が確保できずに、いい演目や値のはる企画(当然一流といわれる人のギャラは高い)は都道府県立でかろうじて維持されてはいるが、なかなかできなくなっている。バブル崩壊後、次々私企業のホールやデパートの美術館が閉館を余儀なくされ、公立も予算はますます減少傾向にある。おりしも独立行政法人化や利益の採算性が言われるようになり、そうして導入された指定管理者制度であるが、これも意図したようには機能していない。
日本の長所でもあり短所でもあるのは、それまで、全く関心がもたれていなかったことが、ある日突然、それ一色になってしまう点だ。そう、今では、公共ホールも自治体も収益性を考えなくてはならないということが、まるでブームのようにあちこちで言われるようになってきた。そうすると当然のようにファンの少ないクラシックや小数派にしか支持されないものが排除される傾向になる。そして、大衆化したものが選ばれることが多くなる。黙ってても集客でき、民間がやるようなものを自治体もやることになる。私が、地方の教育委員会でやっている「○○市民大学講座」という講演会の企画でも、問われるのは内容ではなく、ネームバリューやどれだけTVに出ている人が呼べるかである。そう、内容では人が集まらないので、顔で人を集めるというわけだ。その講演会のよしあしは、何人集客できたかだけでしか測れない。内容の良し悪しで判断する人、できる人はいないのだ。 そして、悲しいことに、地方では、TVにでている人でないと人々がホールに足を運ばない。
国の文化政策が良いか悪いかは、さておいて、質の高い一流といわれるものを知る機会を創出し、提供する。これもとても大事なことだ。一流と言われるものを聞いたことがなければ、上を目指すことはできない。これは当たり前のことだ。しかし、誰もが一流になれるものでもない。だからこそ希少価値があるのだ。 では、一流になれなかったものは、排除されねばならないのだろうか。そんなことはない。
クラシックの世界は、特に大変だ。一流といわれる人でさえ、TV出演もままならず、演奏家として生活していけてる人は、驚くほど少ない。ほとんどの人が大学教授や講師を兼任している。たとえば、そこそこ著名なピアニストでは、幼少よりプライベートでそれなりの先生のついて、レッスンし、大学を出、大学院を出、場合によっては、海外留学もして、その教育費たるや相当なものである。そうして、ピアニストになってもギャラは、少なく、アイドルタレントの多分10分の一か、場合によっては、20分の一くらいかもしれない。
たとえば、フジコ・ヘミングを考えてみよう。ある著名なピアニストの先生に言わせれば、とても許せないことなのだそうだ。彼女が出ていることで、「本当に才能のある」若手が出られなくなっているという。また、お金を頂いているのに、舞台で「間違ったから最初からやり直し」というのは、プロに反するという。ご尤ものことであり、これは、確かに正しい。
しかし、一方で「間違えたって良いのよ、人間なんだから。機械じゃないのよ。」という彼女の姿勢に共感を覚える人も多いのだろう。私の友達でかなりの音楽通だが、「完璧な演奏はもうおもしろくない」と言っていた。実際の彼女のコンサートはチケットが高いにも関わらず売れている。本も絵までも。
そこには、別の商業主義というのも絡んでくる。資本主義では、芸術も価値も時間も消費の一部であり、いかに売るかというのは、大事なことで、売れるときに売ってしまえというのが、タレントや旬なものに対する考え方で、売れなくなったら、サーと誰もが引いてしまう。「デボラウインガーを探して」という映画があるが、私も何人か昔一斉を風靡した女優さんと現在仕事上の付き合いがあるが、本当に人に対してそういう扱いでいいのかと思うほど、その落差を感じることがある。それを人は芸能界は厳しいというのかもしれないが、良い時、人気のある時に、異常に神様のように扱い過ぎるようにも思う。
それは、やはり、ブームに飛びつく人が多いという消費者側の問題もある。
先日、銀座の交差点を横断していたときに、年配の有閑マダムッぽい方々が、「私、先日、フジコ・ヘミングウエイ行って来たのよ。あなた、知ってる。ヨカッタワヨー」これは、明らかにヴェブレン的な見せびらかしの消費である。劇場などにもこのような芸術ホッパーが結構いる。こうした状況のどれもが現実であり、どれもが市場や人気や質を支えあっている。どちらか一方だけが価値が高くて、一方はつまらないものという2極分離ではない。ただ、なぜ売れているか。というのを考えることがあってもいい。
バブル崩壊後は、人々が安全な消費へと向かう傾向から、人と同じ志向に走りがちであり、結果としてメガヒットを生み出してきた。芸術や文化の中でも勝ち組と負け組みというようなカテゴリー分けがされてきている。いったん名声を得たり、マスコミをにぎわせると、巨匠となり、大手のプロダクションが資金をふんだんに使って売り込みをかけ、媒体への露出を仕掛けるなど大々的なプロモーションが可能となる。一方、宣伝にお金がかけられない企業や人は、取り残されている。その中には、本当に素晴らしいものを持っている人もいる。また、NHKの大河ドラマをみてもわかるように、NHKと言えども視聴率を気にして、必ず、人気の俳優や大手プロダクションの俳優や歌手を起用する。その中には、確かにへたくそな人もいれば、機会を得ることで努力して、力をつけていく人もいる。
また、一流といわれる人でも人間的にえげつない人もいることも事実だ。昔は、芸術家はみんな心がピュアーだとか、自分なりの主義主張をもっているなどと信じきっていたが、必ずしもそうでもないことも大人になって知った。「売れりゃーなんでも良いよ。」という人も多いし、「評論家が重々しくかってに解釈してくれるんだよ。でもそれで、権威がつくから、何でもいいよ。」という人もいるし、「売れるとか、売ってくれるとかそういうものではない。自分は一生懸命やるだけ。」という人ももちろんいる。そういう人の人気や評価や質がどうかといえば、小説や映画のように必ずしも正義が勝つわけではないのが、現実だ。
一流という人にも、普通の生活をして一流になった人もいれば、普通の生活を全て排除して(あるいは犠牲にして)、体育の授業は全て見学、スポーツもしない、料理もしない、車の運転もしない、電車にも乗らない。修学旅行にも行かない。。。。そうして一流になったいわゆるエリート教育の賜物のような人もいれば、「いつもポケットにショパン」の中のセリフのように「みんなと音楽で分かり合うためには、みんなと同じ生活をすることが大事」という考えもある。どちらが良いとかいう答えはない。
人間性と芸術ー多様な価値との出会い・市民としての自立ー
とにかく、文化や芸術にはお金がかかる。日本では、不況になると真っ先に文化予算が削られる。けれどもそれは、人間が生きていく上での必要経費だと思う。感じたり、感動したり、憤ったり、笑ったり、涙したり、鼓舞されたり、勇気をもらったり、考えたり、そういう経験は、市民となるための良い訓練であり、成長の過程である。国に言われたから、行政に言われたから参加するのでなく、人にいいといわれたから無理にいいと思わなければならないものでもなく、感動するなと言われても感動するものである。
アダム・スミスは、国富論で「公衆娯楽をさかんに行い、しかもそれを愉快にすることである。」とし、慣習としての娯楽をもっていた古代ローマ人のほうが音楽教育を行っていたギリシャ人よりも徳性において優れていたということも述べている。また、労働者が休養の為の娯楽を楽しんで行うことこそが人間性を高め、社会の秩序を向上させ、自立した市民形成のためのものと考えている。これらの考え方は、今日、教育委員会の公民館活動等に受け継がれているものと思われる。これらは、間口を広げる、文化の裾野の拡大を担うものであり、なによりも関心をもってもらう、知ってもらう為には必要な第一ステップである。
しかし、一方で質の高い技術の確かな美に触れることも大事なことだ。時に、作家の心や葛藤がそのまま伝わるものもある。音を聞けば、その人の性格がわかることもある。これぞ至上の芸術と思えるものに出会えることもある。琴線に触れる瞬間がある。
芸術家も文化人も様々で、その環境も情報・メディア・消費・上下関係・権威と政治と様々な要因が複雑に入り組んでいる。だからこそ、多くの場、機会を積極的に活用し、様々な芸術文化にとにかく触れることが大事だと思う。
また、芸術や文化を単に資本主義の自由競争だけに任せていたのでは、私たちは、多様な文化や価値へのアクセスを制限されることになる。フランスの文化政策は明らかに「国が主導的に文化・芸術を守る・創る」という方針で一環している。一方アメリカでは、市民の寄付や企業や富豪の寄付やスポンサーシップなど民間でのサポートに負うところが大きい。それで、そうしたステイクホルダー向けの報告、どれだけ市民やこどもに貢献しているか、どのよう利益、メリットを上げているかという研究が進んでいる。日本は、これまでフランス型に近かったが、ここ数年アメリカ型の導入が研究者の間で盛んに論じられており、採算性が声高に叫ばれているいる。
しかし、多様な価値と少数が支持する利益採算ベースにのらないけれども大事な文化や芸術もあることも見逃してはならないと思う。そういう意味で、民放でできない番組づくりがNHKにはできるはずであり、自治体だからこそ支援できる芸術文化活動もあるはずだ。もちろん、市民の意見も十分にとりいれ、マーケティングも大事であることは言うまでもない。自治体は、これまで市民の顔を見ていなかったという現実がある。しかし、だからといって、今のやり方は、その反動であっても、あまりにも針が極端に採算性に触れすぎている。
これら両方のベクトルをバランスよく舵取ることが、なによりも重要なことでは、ないだろうか。
最近のコメント